てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

 浮世絵ウォーク 藤沢

 東海道の浮世絵を訪ねる旅、今回はこれ。歌川広重の「東海道五十三次」藤沢(遊行寺)です。

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 製作時期は天保3年(1832)~天保4年(1833)。板元は保永堂 です。

*ちなみに、お断りするのが今になってしまいましたが、これまで取り上げてきた画も保永堂版です。広重には東海道の風景を描いたシリーズがいくつもあり、このシリーズは一般に板元の名から保永堂版東海道と呼ばれています。構図の良さや着眼点が受けて、広重最高傑作シリーズとして大ヒットし、以後広重は、風景画の第一人者と呼ばれるようになりました。

 

人物

 この画は藤沢宿にあった江の島一ノ鳥居を遊行寺を背景にして描いたもので、副題も「遊行寺」となっています。鳥居の後ろに架かる橋は大鋸橋(現遊行寺橋)です。
 大鋸橋の上で鉢巻をして大きな木太刀を担いでいる人は、これから大山詣りに行く人です。大山(標高1253㍍。大山阿夫利神社があります)の大山石尊大権現は商売繁盛の神として多くの参詣者を集めていました。大山詣りでは、神社に木太刀を納めるということが行われていました。他ではない独特の様式だったようです。

 大山は、別名「あめふり山」とも呼ばれ広く親しまれてきました。このあめふりの名は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、古来より雨乞い信仰の中心地としても広く親しまれて参りました。

 奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社となりました。そして、武家の政権始まった後も源頼朝公を始め、徳川家等の代々の将軍は当社を信仰し、そして武運長久を祈りました。庶民からの崇敬も厚く、人々は「講」という組織を作り挙って大山へ参拝をしました。隆盛を極めた江戸期には年間で数十万が訪れたと記録されています。「大山詣り」と呼ばれた当山への参詣は古典落語の中でも語られ、著名な浮世絵師によって多くの浮世絵も残されています。そうした作品に描かれた躍動感溢れる人々の姿からも、いかに大山が当時の人々にとって身近な存在であったかを窺い知ることが出来ます。
 また人気を博した大山詣りを背景に、多くの独特な文化が生み出されたことも大山の特徴です。源頼朝公が刀を納めた事から起こった木太刀を納める納太刀、当社の御祭神が富士山の御祭神である木花咲耶姫の父君に当たることから「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」と伝えられ、大山と富士山の両山をお参りする「両詣り」も盛んに行われました。一部地域では、大山に登れば一人前として認められると伝承されていたとも云われ、立身出世の神としても知られています。(大山阿夫利神社ホームページより)

www.afuri.or.jp

 大鋸橋を渡ってきて大きな鳥居をくぐろうとしている剃髪した4人の人たちは、杖をついています。(一人は小坊主です) 手前3人の表情を見るとどうやら目が見えていない様子。彼らは座頭で、音曲や按摩を業としていました。座頭たちが潜り抜けようとしている鳥居は、江ノ島弁財天への入り口であり、東海道から分かれた江ノ島道へ続きます。(現在でも遊行通りという名前のこの道をただただひたすら歩いて行くと、本当に江ノ島に到達します!) 江ノ島弁財天は、音楽や福の神様で、一般の信仰も篤く、元禄頃の杉山険校が弁財天の霊験によって鍼術の妙技を感得したと伝えられたため、座頭の参詣も多かったのです。
 この画の登場人物たちは、大山と江ノ島という二つの霊場の存在を物語っているのです。藤沢宿は、両地への参詣者で賑わっていたことがよくわかります。

 

構図

 境川の流れに橋が架かり、対岸は戸塚宿側です。対岸から橋を渡ってきて鳥居のある江ノ島道とは反対の右手に折れると、画には描かれていませんが藤沢宿の旅籠が軒を並べているはずです。保永堂版の多くの図が、江戸から京都へ向かう旅を想定して描かれているのですが、この画に関しては対照的なのはなぜでしょうか?

 おそらく広重は、遠景の山の上にそびえる遊行寺の堂々たる姿を、しっかりと描ききりたかったのだろうと推察されています。この図の副題が遊行寺であることも、それを裏付けています。遊行委の伽藍を描くには視点を戸塚側に置かなければならなかったのです。

 また、鳥居を手前に大きく、しかも背後からとらえる構図は大胆かつ機知に富み、特徴的です。広重が視点を戸塚側に置いた狙いは、遊行寺を描くことだけではありませんでした。

 さらに、視点をわりと低くしていることにも着目したいです。先ほど見たような手前の人物の細かな描写に目線が誘導されますし、低いところから見上げることで遊行寺の山はより高々とそびえているように見えます。橋向こうの民家の屋根は低めに描かれ、林立する樹木も低く抑えられていて、背後の遊行寺が、その威容をまざまざと見せつけるような構図になっているのです。

 

追記

 

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 こちらは同じく広重による「隷書東海道」に描かれている同じ場所の風景です。

(広重の 「東海道五十三次」には、保永堂版の他に、行書版と隷書があり、三大傑作シリーズと言われています。)

  隷書では、夜の藤沢宿の場面が描かれています。画面右側にある鳥居が江の島道の入口である江の島一ノ鳥居 、画面中央にあるのが大鋸橋 (現・遊行寺橋)です。宿場に着いた人々や客引きなど、様々な人々の様子が描かれ、当時のにぎわいが感じられます。それにしても、同じ賑わいでも昼間のものとはさすがにずいぶん様子が異なるものですね。

 

【参照】 

『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信 岩崎均史 小学館

『謎解き浮世絵叢書 歌川広重保永堂版東海道五拾三次』(町田市立国際版画美術館 二玄社

藤沢市藤澤浮世絵館ホームページ

www.fujisawa-ukiyoekan.net

電子博物館・みゆネットふじさわホームページ

www.fujisawa-miyu.net

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