てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

クローズアップ! 戸塚宿

 まだ保土ケ谷宿にも到達していないのですが、ブログは戸塚宿へ! 今週末も台風の心配が。もともと亀の歩みだったのに、石になってしまいそう・・・ 久しぶりの週末の太陽サン、待っている人、多いと思うけどなぁ。

 

 戸塚区は、 1939年 (昭和14年) 4月1日 、鎌倉郡内の1町7か村(戸塚町、川上村、豊田村、中和田村、本郷村、瀬谷村、中川村、大正村)が横浜市に合併し、誕生 しました。その後、瀬谷区栄区泉区を分区しましたが、面積が横浜市でいちばん広い区です。戸塚区内では旧東海道は南北方向にまたがっており、全長約11.7㎞あります。その中で戸塚宿は、2つの見付跡(江戸見附と上方見附)に挟まれた2.3キロの範囲であると解説している資料を多数見かけました。この範囲は現在では吉田町、矢部町、戸塚町に及ぶ地域で、JR戸塚駅周辺の中心街に重なります。

 ここではたと考え込んでしまったのが、先日のブログにも書きました「北斎東海道程ヶ谷」の場所は、権太坂のある保土ケ谷か、品濃坂のある戸塚かという問題です。

 

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 武蔵国相模国の国境から西寄りを戸塚宿の管轄としていたと書いている資料もあって、そうなると品濃坂は保土ケ谷ではなく戸塚ということになるのですが、江戸見附に入ってからが戸塚宿ならば、品濃坂は、まだ保土ケ谷のエリアなのでしょうか。だとすれば、北斎は品濃坂の松林を絵にかいて「程ヶ谷」とタイトルをつけたと考えることができ、いろいろ合点がいきます。

 仮説ですが、宿場の定義は二つあって、狭義には江戸寄りの見附と上方寄りの見附の間の人が集まり生活しているエリア(宿場町)、広義には国境などの境までの管轄エリア。そうはいいつつ、〈見附の外・かつ国境の内側〉の街道沿いは、宿場の(この場合戸塚)の管轄エリアでありながら曖昧で、隣の宿場の名前(この場合保土ケ谷)で呼ばれたりすることもあったのかなあ・・・と。乱暴な仮説ですが。そもそも宿場の範囲って、どうやって決めるんでしょうね? 明確に説明している資料は見当たりませんでした。そんなこんなの疑問を頭にひっかけながら街道ウォークをしようと思います。いつか、「そーなんだ!」っ納得する説明に出会えるかも。

 前置きが長くなってしまいました。先ほど、戸塚区は1939年 (昭和14年) に誕生したと書きましたが、戸塚宿の成立は慶長9年(1604)です。隣宿である藤沢、保土ケ谷の宿が成立した慶長6年に遅れること3年でした。それまでは日本橋を早朝に発っても、1泊目は距離的に保土ケ谷宿での泊まりを余儀なくされましたが、地元の陳情により戸塚が宿駅になりました。地元の陳情って、江戸時代もあったんですねえ。

 日本橋から数えて5番目の宿場町で起点の日本橋からは10里半(約42キロ)の距離にあり、朝江戸を発った当時の旅人の一番目の宿場町として最適であり、さらに鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せました。誘致の結果、成功ですね! 地元としては、ほっくほく? なんか、こういうの、今もよくありません? 程ヶ谷は大打撃? あ、でも、保土ケ谷って「今日はこの辺りでほどほどにして泊まっていきなされ」みたいな宿場でしたね。ゆったりのんびり派、あるいは戸塚まで行きたくても日がとっぷり暮れてしまった人たちにとって、ありがたい宿場なので、それなりにお客を二分していたのでしょう。

 ちなみに、東海道宿村大概帳【天保14年(1843)頃】によると、戸塚宿内の人口は2900人戸余、家数は613軒、本陣は2、脇本陣は3、旅籠は75軒と東海道五十三次の宿場の中では10番目に宿泊施設の多い宿場でした。

 昭和30年以降、戸塚区は、道路網の整備や鉄道の延伸、工場の進出や宅地開発などで人口が急増しました。宿場町の中心があった戸塚駅周辺のエリアは、近年になって再開発が進み、新しく生まれ変わろうとしています。江戸時代に思いを馳せつつ、変わっていく戸塚の町をウォッチする街道ウォークにしたいと思っています。

 早く行きたいなあ!

 

【参考】

 

国土交通省関東地方整備局ホームページ

戸塚宿を歩く

横浜市戸塚区ホームページ

横浜市 戸塚区役所 旧東海道戸塚宿の歴史を歩く散策マップ

『「東海道五十七次」の魅力と見所』(志田威 交通新聞社

『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信 岩崎均史 小学館

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