てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

先取りふむふむ 神奈川→保土ケ谷①

 第4回東海道ウォーク 神奈川→保土ケ谷について、今日から準備を始めます。(この頃、明けても暮れても、東海道のことを考えている自分が、ちょっとこわい・・・ 大丈夫、ちゃんと仕事もしております。)

 今度の行程は5.1㌔(一里九町)。これまでより格段に距離が短いので、もう少し先の東戸塚まで行ってしまおうかと考えたのですが、同行者くろやぎ(夫)が、「いやいやいやいや、保土ケ谷を甘く見るな」とか「権太坂がきつい」とか、いろいろ言うのでやめました。同行者の意見は聞かないとね。それに、保土ケ谷をさーっと通り過ぎちゃうのもちょっと残念かなと思ったのと、時間が余るので帰りに川崎で途中下車して、「かわさき宿交流館」の展示(この間、」ちゃんと見なかったから)をじっくり見るのもいいかなあと思ったのです。切り替え早いでしょ?

 くろやぎさんのブログはこちら

rkuroyagichan.hatenablog.com

  というわけで、今回は5.1㌔のショートウォークになりますが、じっくりゆっくり回りたいと思います。チェックポイントは以下の通りです。

 

1.神奈川地区センター

 地区センター前の広場には、かつて滝の橋のたもとにあった「高札場」が復元されています。広場の床面は、「神奈川宿歴史の道」のシンボルマークの「青海波」のデザインになっています。

 

2.滝の川

 権現山から流れ出る水が滝となって落ちていたので「滝の川」と言われるようになったという説があり、「河童のくれたされこうべ」という伝説もあります。

 昔々、滝の川には河童が住んでいて旅人を困らせていると聞いた一人の侍が、見事にこの河童を捕まえました。河童は「ある年一匹のうわばみが現れて、亭主は殺されてしまい、それからというものは、二人の子どもを養うために悪いこととは知りながら、ついついご迷惑をかけました。以後いっさい悪いことはいたしません。約束のしるしに、大事な亭主の首をさしあげます。どうぞおゆるしください・・・・」と泣き泣き言いました。哀れに思った侍は許してやりました。その夜、河童は約束通り首を届け、以後宿場は静かになったそうです。

 

3.慶運寺

  開港当時、フランス大使館に充てられたお寺。浦島丘にあった観福寿寺が慶応年間の大火で焼失したため、浦島伝説にかかわる記念物がこのお寺に移され、以来「浦島寺」とも呼ばれています。浦島太郎が竜宮城に行ったとき、乙姫様からいただいた菩薩像などが伝わってるといわれています。

 

4.浄龍寺

  開港当時、イギリス大使館に充てられたお寺。本堂を始め諸所にペンキが塗られたそうですが、横浜大空襲で焼失しました。当時、イギリス領事が手植した「多行松」と呼ばれる松があり、横浜十名木に指定されています。

 

5.成仏寺

  開港当時、アメリカ人宣教師の宿舎に充てられました。ヘボン式ローマ字で知られ最初の和英辞典を編纂したヘボンが本堂に住み、聖書や讃美歌の翻訳に尽力したブラウンが庫裏に住んだといわれています。ヘボンは、広い本堂を襖で仕切り、大小八つばかりの部屋を作り、住みよくなって、庭も美しく気に入っていると友人に宛てた手紙にかいています。

 

6.宗興寺

   アメリカ人宣教師で医者であったヘボンが、ここに施療所を開いていました。境内に碑があります。境内のすぐ脇に、徳川将軍や明治天皇の通行の際に使われた「神奈川の大井戸」があります。この水の量が増えると翌日の天気がよくなるといわれ、街道を通る旅人には「お天気井戸」と呼ばれていました。

 

7.神奈川本陣跡

  小野モータース 解説板あり

 宿場町時代には、滝の川を挟んで江戸川に神奈川(石井)宿、反対側に青木(鈴木)宿が置かれていました。本陣というのは、大名や公家が宿泊や休憩をする幕府公認の宿です。

 

8.滝の橋

 

9.青木本陣跡

  ランドシティ横浜ポートサイド

 

10.洲崎神社

 源頼朝の創建。神社前の道を海側へ、第一京浜に出るあたりが、かつての神奈川湊の荷揚場で、横浜開港の中心地でした。

 

11.甚行寺

 開港当時、本堂は土蔵造りでしたが、改造を加えてフランス公使館に充てられました。関東大震災と横浜大空襲で焼失しましたが、昭和46年(1971)に再建し、現在に至っています。

 

12.普門院

 洲崎大神の別当寺であったため「洲崎山」と号し、真言宗智山派に属します。

 

13.本覚寺

 開港当時アメリカ領事館に充てられました。神奈川領事であったドーアは、庭の松の枝を払い落し、この木の上に星条旗を掲げ、本尊を板囲いで覆い、山門をペンキで塗り、日本人の立ち入りを禁じたといわれています。

 生麦事件では、ここにリチャードソンの遺体が運ばれ、検死後、ヘボン博士が切り口の縫合を行いました。

 安政5年(1858)、日米修好通商条約締結に際し、アメリカ公使ハリスとの交渉にあたった全権委員・岩瀬忠震(ただなり)を記念する石碑があります。

  

14.青木橋

  本覚寺のある丘と幸ヶ谷公園のある丘とは、元来ひと続きでしたが、この丘を切り開き、明治5年(1872)、新橋・横浜間に鉄道が通されました。工事に伴い、鉄道をまたいで旧東海道を結んで、青木橋が架けられました。当時、神奈川の停車場は、この橋のすぐ南側に作られていました。眼下の線路は、日本ではじめて鉄道が開通した際の軌道跡ともいえるのです。

 青木橋付近は交通の中心として長らく栄えていましたが、昭和3年(1928)、現在の横浜駅ができると、その中心性は失われていきました。

 

15.大網金毘羅神社

 かつて眼下に広がっていた神奈川湊の海運関係者から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られています。


16.神奈川の一里塚跡

 江戸時代には、金毘羅神社前の街道両脇に、日本橋より七つ目の一里塚が置かれていました。現在の金毘羅神社の鳥居脇あたりが、その塚跡です。

 

17.三宝

 嘉永4年(1851)に第21世住職となった弁玉(弁玉)は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人でもあり、文明開化の新事物を詠いました。

 

18.田中家

 歌川広重が描いた神奈川はこの辺り(現在の台町)。かつては神奈川湊を見下ろす景勝の地でした。広重の浮世絵によると、沿道には数軒の茶屋が軒を連ねていますが、中央の「さくらや」は文久2年(1862)以降、料亭「田中家」となり、高杉晋作やハリスも訪れています。坂本龍馬の妻・おりょう勝海舟の紹介で明治7年(1874)から田中屋で働き、英語力と月琴演奏で外国人客に評判になりました。現在も営業中の貴重なお店です。和室に椅子・テーブルで食事をすることもでき、当時の雰囲気を味わうことできるそうです。お値段は、それなりに、します・・・

www.tanakaya1863.co.jp

 

19.神奈川関門碑

  開港後、外国人が相次いで殺傷されましたが、その犯人はなかなか捕らえられず、各国の領事たちは幕府を激しく非難しました。そこで幕府は、横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化しました。神奈川宿の東西にも関門が作られ、そのひとつが西側・神奈川台の関門です。

 生麦事件の際には、島津久光の行列の通過を待って、ただちに関門を閉じ、イギリス兵の追撃を封じたといわれています。

 

20.上台橋

  かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道でした。この場所から見えた朝日が、「神奈川駅中図会」に描かれています。昭和5年(1930)、開発が進み切通の道路ができるとともに、その上に橋が架けられました。

 

 神奈川区から西区に入る手前で、ブログも一息入れます。距離は短いですが、チェックポイントは結構ありますね。さすが、開港の地。

 横浜周辺と言えば、開港の歴史なのだと認識を改めたのですが、本堂にペンキを塗られたり、改造されたり、日本人としては複雑な心境になりますね。同じようなことを、日本人も別の場所でして来たわけですけれども。考え込んでしまい、キーボードの手がしばしば止まった横浜「先取りふむふむ」でした。

 今回参考したのは、横浜市神奈川区のホームページと

横浜市 神奈川区 神奈川区役所ホームページ 神奈川宿歴史の道【パンフレット紹介】

以下の資料です。

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社

『決定版東海道五十三次ガイド』(東海道ネットワークの会 講談社

『「東海道五十七次」の魅力と見所』(志田威 交通新聞社

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