てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

街道ウォークのお宝 品川→川崎 ③

 街道ウォークでパチリした説明板や石碑のレポート3回目です。昨日、まだまだとてもたくさんあることに気がついて、ちょっと気が遠くなりました。今回からは反省して、これはというものをチョイスして、もう少しテンポよく進めようと思います! 生まれたてほやほやのブログで、試行錯誤中ゆえ、迷走しておりますことお許しください。

 前回までは、説明板の写真の下に内容を打ち直したものをつけていたのですが、それはやめてシンプルに写真のみにします。実際に碑や説明板を眺めるような気分で、たどっていただけたらと思います。写真だけでは内容が読み取れそうにないものについては、記します。

 それでは今日は、仙台藩伊達家ゆかりの旧仙台坂から、六郷の渡しの手前までご案内します!

旧仙台坂(くらやみ坂)

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浜川橋

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浜川神社

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鈴ヶ森遺跡

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磐井神社(鈴ヶ森神社)

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大森稲荷神社

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美原通り

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するがや通り

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西南日清戦役碑

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梅屋敷

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六郷神社

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神社入り口掲示

六郷神社由緒

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「江戸名所図会」に描かれた六郷八幡宮

 

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 社殿正面の道が、慶長6年(1601)に幕府の制定した古い東海道で、松並木が続いていました。これが西方に付け替えられたのは元和9年(1623)といわれていまし。このとき、神域を囲っていた構堀の一部を埋めて、脇参道ができました。往還の両側に並んでいるのは八幡塚村の人家で、脇参道の鳥居からやや南寄りに、日本橋から四里(15.6㌖)の一里塚と、その前に高札場が描かれています。東方はるかに連なるのは房総の山で、右手には川崎大師の屋根も見え、辺り一面水田です。社殿の上の方にひときわ大きくめだっているのは、今も境内にある塚で、八幡塚あるいは神興塚と呼ばれ、竹林に囲まれていた様子がうかがえます。かつては六郷六か村の中心をなし、当社の宮本でもあった八幡塚村という村名は、この聖なる塚に由来します。近代に及んで東海道第一京浜国道となりますが、脇参道付近から六郷橋へ向かう道筋の一部は、旧東海道の幅員を比較的よく残しています。ちなみに、「江戸名所図会」は、天保7年(18369に『刊行された地誌です。

平成4年3月吉日 奉納 六郷神社崇敬会

 

 北野天神

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此処からほど近い旧東海道の一角に土地の古老たちが”柳生様”と呼んでいた所があります。将軍指南役柳生家の留守居役馬別当の屋敷と馬屋があった跡です。八代将軍吉宗公の御乗馬が暴走してあわやと云う時に将軍の”落馬を止めた”北野天満の御加護にあやかったものだと云われています。昔から馬の乗り方を”天神乗り”と云うように天神様は乗馬の師でもありました。馬術の基である馬のために馬屋を此処においた柳生家の心情がうかゞわれます。将軍の”落馬を止めた”天神様の評判は東海道を行き来する旅人達に依り遠くまで広がり大名や武士は”落馬止め天神”と呼び文武の拠り所としました。然し近郷の村人や敢て落馬という呼び名をはぶいて”止め天神”と呼ぶようになりました。人の身に降りかゝる悪い事を一切”止め”て下さる天神様として昔から今日まで多くの人に崇敬されております。

昭和60年5月吉日 文責 吉崎武守

 

北野天神脇の土手を登ると六郷橋です。

次回は、六郷橋を渡った川崎宿の説明板をリポートします。