てくてくわくわく 街道ウォーク

街道ウォークの日々 まずは定番、東海道五十三次からです!

地図 試行錯誤

 街道ウォークの必需品、地図。日本橋→品川ウォークでは、「でっか字まっぷ 東京23区」(昭文社)をコピーして、ルートをなぞり、立ち寄りポイントの印を入れたものをつなげた地図を持参しました。全体を俯瞰できて楽しかったのですが、次の品川→川崎も同様のものを作ろうとして、作業が急に難しくなりました。なぜだと思いますか?

 それは、縮尺が小さくなったからです。立ち寄りポイントの場所がわかりにくくて特定できません。同じ地図帳でありながら、品川までは1:8000だったのに、品川から先は1:16000なんですね・・・

 自宅にあるロードマップと、新たに購入した「ハンディマップル でっか字横浜・川崎 詳細便利地図」(昭文社)をコピーして作業をやり直ししました。やはり最低でも1:10000はないと作業しづらいです。「でっか字まっぷ 東京23区」、「ハンディマップル でっか字横浜・川崎 詳細便利地図」、ロードマップの3冊を駆使して、できるだけ大きな縮尺になるように、地図を3枚作りました。

JR品川駅→京浜急行新馬場駅エリア 1:8000 3枚のコピーをつなげたもの

京浜急行新馬場駅川崎市川崎区本町2丁目エリア 1:10000 6枚のコピー

川崎市川崎区本町2丁目→川崎駅周辺エリア 1:5000 1枚

 

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 前回の反省として、『ちゃんと歩ける東海道五十三次 江戸日本橋~袋井宿』(五街道ウォーク 八木牧夫/山と渓谷社)を持って歩いたのですが、雨が今にも振り出しそうな空を見上げながら、本が濡れるのではないかとひやひやしました。次回は、持ち歩き用には必要なページをコピーします。ガイドブックはリュックに中に入れておきますが、年月をかけて使うことになるので、くたびれてこないように包装紙のカバーをかけました。

 次回は12.6キロ。前回の7.4キロに比べはるかに長距離なので、地図をよくよく見てから出発しようと思います!

 

 

 

日本橋→品川 あとからふむふむ

 

 ガイドブックにチェックポイントとして載っているものの、名前だけでそれがどんな由来なのかわからなくて、現地で説明板を探したものの見当たらず。あるいは、簡単な説明は載っていたもののそれを裏付ける説明板がやはり見当たらず・・・。なんとなく引っかかっていたところ、詳しい本を見つけました

 

「そうだったのか~!」と今さらながら[ふむふむ」と納得することがいろいろ見つかったので、紹介します。

 

①子どもの頃、銀座のデパートの屋上に、何かなかったっけ?

名水白木の井戸 

 白木屋は寛永2年(1665)に開業した小間物屋です。寛永5年に現在地(東急百貨店のあったところ 現コルド日本橋)に移転しました。店内にあった井戸は水質の良い名水で、住民のみならず諸大名の茶の湯にも用いられていました。日本橋東急の頃は1階に遺構があり、屋上に井戸を掘った時に出土したという聖観音像も安置してありました。

 

②ガイドブックによれば虫歯を治す神さまらしいけど、どうして?

日比谷神社

 古くは日比谷大塚山(現在地は特定できない)にあったそうですが、慶長11年(1606)江戸城修築工事に伴い芝口に移転しました。

 最初は旅泊稲荷とも呼ばれ、旅人の苦難除けにご利益があるとされていました。芝国に移ってからは鯖稲荷とも呼ばれ、虫歯の人が鯖を断って祈願すれば治癒するとされました。なぜ、虫歯と鯖が結びついたのかはわかりません。現在地(新橋4丁目)には、昭和3年に移転しました。

 

③「め組」と力士の喧嘩って、どんなの?

芝大神宮

 文化2年(1805)2年に出来事です。境内で勧進相撲が行われていて、力士の四つ車第八や水引清五郎らと、この地一帯を縄張りとする町火消し「め組の鳶衆」が起こした大喧嘩で、歌舞伎の題材にもなりました。事件を裁いた町奉行が、「勝手に鳴りだした半鐘が悪い」として境内の半鐘を縄で縛って島流しにし、事件の張本人はお咎めなしとしたという粋な江戸っ子らしいエピソードが有名ですが、実際はめ組の衆が仲間を集めるために非常用の半鐘を打ち鳴らしたらしく、火消のうちの2人は、重い仕打ちを受けたそうです。

 また、先日行われていたお祭りは「だらだら祭り」として知られています。翌日がお祭りらしいと書いてしまいましたが、9月11日から21日まで、だらだらと長い期間行われるので、こう呼ばれるようになりました。言われてみれば、台風を控えているのに、慌てることもなく、いい意味でゆるやかに物事が行われているように感じたものでした。

おまけ お江戸日本橋七つ発ち

 有名な「お江戸日本橋」の歌は、旅人が日本橋を七つ(午前4時)に出発することを言っています。歩いて旅する昔の人の朝は、早いですね! 4時に出発して高輪大木戸のあたりまで来ると、明るくなったので提灯を消したそうです。むむむ! 結構速い! 木戸から品川宿に入るまでの街道沿いには茶屋や料理屋が軒を連ねていたので「高輪は眩しい飯を食うところ」などと川柳に詠まれました。高輪はモーニングを食べる街だったのか~!

今回参考にした本
  • 『江戸・東京文庫①江戸の名残と情緒の探訪 江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区台東区墨田区江東区』(街と暮らし社 2010年刊)
  • 『江戸・東京文庫③江戸の名残と情緒の探訪 江戸・東京 歴史の散歩道3 港区・品川区・大田区・目黒区』(街と暮らし社 2001年刊)
  • 『江戸・東京文庫⑦江戸の名残と情緒の探訪 江戸四宿を歩く 品川宿・千住宿・板橋宿・内藤新宿』 いずれも 街と暮らし社(街と暮らし社 2001年刊)

 本はすべて図書館で見つけました。街の本屋さんでは、こういうコアな本はほとんど置いていないです。出版年はやや古めだけど、史実を知る分には問題ないと思います。むしろ、ここまで詳しい本は、なかなか見つからないから貴重。図書館、どんどん利用すべし!

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街道ウォークの必需品

 街道ウォークになくてはならないもの・・・って何でしょう?

 答えはカンタン、それは地図。地図がなければ道がわからないし、チェックポイントも見落としますからね。

 では、どんな地図がいいのでしょう? 今回東海道ウォークを始めるにあたり、選んだ地図は、ズバリ、『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫・著/山と渓谷社 2014年刊)というガイドブックです。理由は、まず出版年が新しいこと。古い情報は旅行記としては楽しめますが、地図としては不安です。コンビニの位置とか、目印になるものはどんどん変わりますからね。次に内容。現在の地図が薄くバックになっていて、その上に東海道を重ね、史蹟・旧跡などのチェックポイントを重ねています。そうそう、大切なことは、街道ウォークに自分は何を主に求めるかということです。食べ歩きやお土産に興味があるなら、そうした情報が充実していなくては! 私が一番こだわっているのは、史蹟・旧跡巡りなので、当然ガイドブックもそちらがきちんと載っているものにしました。ひとつひとつへの説明は簡単ですが、それがどこにあるか、地図上に記されています。それとタイトル通り「ちゃんと歩ける」ということ。旧道をできる限り正確に辿るのも目的なので。このにはお土産やグルメの情報は載っていない代わりに、私のほしい情報はきっちり載っているシンプルな本です。袋井宿までの上巻と、京三条大橋までの下巻、2巻構成になっています。11×19㎝ 大きさ的にもちょうどいいです。さらに、これはあんまり根拠がないのですが、出版社の信頼性。山と渓谷社なら旅行案内として信用できるかな?といったところです。

 ただし、1冊のガイドですべてがカバーできるということは決してありません。やはりガッツリした地図は必要。史蹟・旧跡は、目立たない路地裏とかにひっそりとあることも多いです。上記の「ちゃんと歩ける」ガイドブックの背景になっている薄い地図だけでは、わかりにくいです。それに、「ちゃんと歩ける」は、街道をまっすぐ歩くことを想定にしているので、ページをめくれどもめくれども、ひたすら右から左へ(つまり東から西へ)流れる地図になっています。北が上ではありません! このシンプルさが、いいといえばいいのですが、やはり、自分がどこにいるのか、ちゃんとした地図で知りたいという気持ちはありますし、どこからどこへ移動するのか(あるいは移動したのか)、上から見て俯瞰したいと思います。というわけで、今回持参したもう1冊は、『でっか字まっぷ東京23区』(昭文社です。ハンディサイズ版です。もともと持っていたもので、街歩きなどの際にリュックに入れていました。今回もこれに大変お世話になりました。

 この2冊をどう使ったかというと、事前に、「でっか字」の方をコピーして、「ちゃんと歩ける」を見ながら、歩くルートを蛍光ペンでなぞりました。同時に、「ちゃんと歩ける」に載っている史跡・旧跡のチャックポイントをコピーの地図上に印をつけたのですが、これがかなり大変でした。「ちゃんと歩ける」の地図は薄いからよくよく目を凝らさないとわからないし、向きも違いますからね。この作業、前日にふと思いついてやって見たのですが、やってよかったとつくづく思いました。たぶん、これをしないとうろうろする時間が増えてしまう・・・

 さて、いよいよ全部に印をつけたところで、コピーの地図をつなげてみました。最初は、東西ではなく、南下の旅なんですね! 

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まさに、俯瞰した気分。せっかくなのでセロテープで軽くつなげて折りたたんで、当日持っていきましたよ。それには、また反省があるのですが、次の機会にお話しします。やってみないとわからないことって、いっぱあるんですね!

 

 

街道ウォークのお宝は・・・

  街道ウォークの準備をしていて、どんなガイドブックを見ても、それ以上詳しい説明に行き当たらず、もやもやすることってありませんか? 現地で説明板を前にしたとき、あんなにもわからなかったことが、詳しく書いてあって、ちょっと拍子抜けすることも。自分の足で歩いて手にした情報は、街道ウォークのお宝です!

 チェックポイントにしている旧跡などに建っている碑や説明板を、できる限りパチリするようにして、紹介していきたいと思っています。たくさんあるので、一度にできず少しずつになるかもしれませんが。

 とりあえず、日本橋→品川ルートについて、順を追って掲載します。

 

1.日本橋

 

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 国指定重要文化財 日本橋

                 所在地 中央区日本橋1丁目 日本橋室町1丁目

 日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕府の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。

 現在の日本橋東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。

 平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。

 平成12年3月

                               中央区教育委員会

 

2.江戸秤座跡

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江戸秤座跡

所在地 中央区日本橋3丁目7番20号

 江戸幕府は、秤量の基準統一を図るための秤役所「秤座」を設置しました。そして、秤の製作・販売・修理・検査などの独占権は、江戸秤座の「守髄家」(しゅずいけ 東国三十三か国)と京都秤座の神家(じんけ 西国三十三か国)に分掌させ、全国の権衡制が統一されました。

 甲斐武田の家臣として秤の製造を生業としていた守髄家は、徳川家康の関東入国とともに江戸へ出て、家康の許可を得て幕府公認の秤商となりました。その後幕府は承応2年(1653)に江戸・京都の両秤座を定め、江戸幕府は御用商人であった守髄家が任にあたりました。

 江戸秤座の場所は、京橋の具足町(現在の京橋3丁目)に設置された時期もありましたが、江戸後期から明治8年(1875)の度量衡取締条例による秤座廃止まで、箔屋町(はくやちょう 現在地である日本橋3丁目)の地に置かれていました。

 当地は江戸時代の度量衡に関する重要な史跡として、中央区文化財に登録されています。

 平成27年3月

                               中央区教育委員会

 

3.ヤンヨーステン像 碑文

 

ヤン・ヨーステン 1557頃~1623

1600年(慶長5年)オランダ船リーフデ号でウィリアム・アダムスらと豊後に漂着した。そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。彼の家屋敷は現在の和田倉門₋日比谷間の内堀の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八重洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続いた。現在は中央区八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。

              ヤン・ヨーステン像 オランダ人 L.P.プラート作

 

4.史跡江戸歌舞伎発祥の地 碑文

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寛永元年2月15日元祖猿若中村勘三郎中橋南地と言える此地に猿若猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ江戸歌舞伎の濫□也 慈に史跡を按し□石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す

昭和32年7月

                             江戸歌舞伎旧史保存會

 

5.銀座

◆煉瓦銀座の碑 碑文

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煉瓦座銀座の碑

明治5年2月26日(皇紀2532年 西暦1872年)銀座は全焼し延焼墓地方面に及び焼失戸数四千戸と称する

東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企測建築し政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す

煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街の濫□となりたり

昭和31年4月2日

 

◆煉瓦とガス灯 説明文

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煉瓦とガス燈(1987年記)

明治初期我が国文明開化のシンボルとして銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明は、ガス燈が用いられた。

床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は明治7年の実物を使用、燈具は忠実に復元。

◆銀座発祥の地(銀座役所跡) 碑文

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慶長17年(紀元2272年 西暦1612年)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す 当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ明治2年遂に銀座を町名とする事に公示さる

昭和30年4月1日建之

銀座通聯合会

 

6.芝口御門跡 説明板

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 芝口御門跡

所在地 中央区銀座8-8・9・10付近

 ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和39年まで新橋が架かっていました。

 宝永7年(1710)、朝鮮の聘使の来朝に備えて、新井白石の建築にもとづきわが国の威光を顕示するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建築されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。

 城門は橋の北詰を石垣で囲って桝形とし、橋のたもとの冠木門から桝形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。

昭和52年10月

中央区教育委員会

 

7.銀座柳の碑

 

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8.芝大神宮の力石

 

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東京都港区指定文化財

有形民俗文化財 芝大神宮の力石

 力石は重い石を持ち上げて「力競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石である。特に、江戸時代後期の文化・文政期には、職業的な力持ち力士による興行が行われるようになった。芝大神宮の力石は「五十貫余」の切付とともに、「川口町 金杉藤吉」の名前がある。これは明治時代に活躍した有名な力持ち力士のひとり、芝金杉川口町の山口藤吉(慶応3年生)、通称「金杉の藤吉」のことである。芝大神宮で力持ちの興行が行われた時、金杉の藤吉がこの石を片手で差し上げたと伝えられている。

 港区内には全部で14点の力石が確認されているが、こうした力持ち力士の伝承がともなっているのはこの芝大神宮の力石のみであり、都市の力石の民俗を知る資料として貴重なものである。

平成7年9月26日

東京都港区教育委員会

 

8.浜松町の由来

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浜松町 町名の由来

 武蔵野の東南端、広く海に面したこの辺りは、その天然資源も豊かなる為、古くより人間生活が営まれ、古墳時代の遺跡として今も芝公園台上に残る、大古墳跡に見られる如く集落を形成。漁業を中心とする活動が盛んであったと思われ、その関係か古く由緒ある社寺(芝大神宮等)が近隣に現存する。その後乱世を迎え太田道灌、平川城(江戸城の前身)を築く頃には、町らしき形態に成ったものと考えられ、天正18年(1590)徳川家康江戸城入城を見、城下町計画に着手。慶応3年(1598)その菩提寺増上寺を麹町より現在地に移転、更に武家を中心に町年寄、特権商人、地元住民による東側海岸地帯の埋立工事完成。慶長6年(1603)東海道を現国道10号線上に定め、此の東西両側には日常生活用品から産業用資材まで各種商人が軒を連ね商業地域の中心となり、その両後背に大名屋敷が並ぶ江戸の町が出現した。当時此の町は増上寺代官と兼任であった。名主奥住久衛門の支配下で「久衛門町」と呼ばれ、元禄年間には遠江静岡県)浜松出身の権兵衛と言ふ名主と交替した事により、これ以後「浜松町」と改名され、明治、大正、昭和、平成と受け継がれ現在に続いている。江戸では歴史ある数少ない「古町」のひとつである。

 尚、当町内には多くの史跡、旧跡(慶応義塾跡、新銭座跡、東京市□□庫第1号跡)等が点在している。

(文責)加藤辰太郎

 

9.勝・西郷会見の地

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田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内

この敷地は、明治維新前タ慶長4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。

この屋敷の裏側はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などは、ここで陸揚げされました。

現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。

 

10.札ノ辻 説明板

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札の辻

 江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられて、有告法令などが掲示されたところから、札の辻と呼ぶようになりました。元和2年(1616)には、芝口門をここに建てて、江戸正面入口としての形式を整えました。この門は「日暮御門(ひぐらしのごもん)」といわれましたが、これはこの東がすぐに江戸湾に接し、海を隔てて房総の山々を望む、一日眺めてもあきない景色であったためといわれています。

 その後高札場は、天和3年(1683)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されました。また、宝永7年(1710)に芝口門は新橋北側に建替えられ、ここは「元札の辻」と呼ぶようになりましたが、明治維新後はまた「元」を略して「札の辻」と呼んでいます。

昭和52年1月(平成17年12月建替)

港区教育委員会

 

11.元和キリシタン遺跡

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都旧跡 元和キリシタン遺跡

所在指定 港区三田3丁目7番 昭和34年2月21日

 徳川3代将軍家光が元和9年(1623)10月3日、江戸でキリシタンを処刑したことは徳川実紀によって知られている。処刑された者はエロニモ、デアンゼルス神父、シモン、遠甫、ガルウエス神父、原主水ら50人で、京都に通ずる東海道の入り口にある丘が選ばれたと、パジェスの「日本キリシタン史」にあるが、その他はおそらく元の智福寺のあった西の丘の中腹の辺であろうと考えられる。その傍証としては智福寺開山一空上人略伝記にこの地が以前処刑地で長い間空き地となっていたが、そこに寺を建てることは罪人が浮かばれると考えたとあることなどがあげられる。

 なお、寛永15年(1638)12月3日にも同じ場所でキリシタンらが処刑されている。

昭和43年3月1日 建設 東京都教育委員会

 

12.高輪大木戸跡

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史跡 高輪大木戸跡 

所在地港区高輪2丁目10番 指定 昭和3年2月7日

 高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門に建てられたのが起源である。享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛永4年(1792)など諸説がある。

 江戸の商の入り口として道幅約6間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。

 天和2年(1682)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋内、半蔵門外とともに江戸の6大高札場の1つであった。

 京登り、東下り伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。

 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4メートル、長さ7.3メートル、高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。

 四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。

平成5年3月31日建設

東京都教育委員会

 

13.高輪海岸の石垣石 説明文

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高輪海岸の石垣石

 ここに展示されている石は、江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。

 平成7年(1995)、高輪二丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。

 石垣には、主に相模湾から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。

 発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積み直されたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。

平成13年(2001年)5月

港区教育委員会

 

思い立ったら吉日! 日本橋→品川

 思い立ったら吉日。昨日、9月16日は、台風の接近が心配な三連休の初日でしたが、早速東海道ウォークをスタートさせました。10時30分に日本橋をスタートし、1時間弱の昼食をはさんで2時45分に品川駅前に到着しました。途中に降られることなく、品川についたとたん、パラパラと雨が落ちてきて、ラッキーでした。記念碑や旧跡などを探しながらの半日を、写真とともに振り返ります。

1.日本橋
  先の東京オリンピック首都高速の高架下になり甚だしく景観を損ねて批判に晒されてきた日本橋ですが、次のオリンピックで元に戻るプランが浮上。そうなってくると、この景観にも妙な感慨が湧いてくるから不思議です。2年後、この景色はどうなるのでしょう?
 

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日本橋の欄干。なかなか立派です。この脇に観光センターで、一筆箋を買いました。

 

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先は長いですね!

 

 

2.白木の名水

 コレド日本橋裏に回ると、小さな公園(植え込み)に、名水白木屋の井戸碑がありました。

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3.秤座跡
  秤の量目の基準量を統一するために江戸幕府が設置した役所、秤座があった場所です。

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4.ヤンヨーステン像
 日本橋三丁目交差点 中央分離帯の中のスペースにあります。この下は、かつては東西に延びる堀があって、中橋と呼ばれていたようです。ヨンヤーステンは、1600年、ウィリアム・アダムスと共にリーフデ号で豊後に漂着して家康から屋敷を与えられました。

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5.歌川広重住居跡?
 浮世絵師歌川広重の住居跡があるということで探したのですが、見つからず・・・
 TKP東京駅八重洲カンファレンスセンターの裏あたり。工事中で中の様子はわかりません。信用金庫のビルを建て替え中? ビル完成後に、きっと見つけられることを願って・・・

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6.江戸歌舞伎発祥の碑
初代中村勘三郎中村座を開いた場所です。

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7.京橋跡
 日本橋に対して京の名がつけられたという架け橋は、京橋川が埋め立てられて、今はありません。京橋があった場所に、煉瓦銀座の碑があります。すぐ近くにガス灯が1本立っていて、本当にガスの火が灯っていました。明るいだけでなくて、温かい灯りでした。

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8.銀座役所跡
  銀貨の鋳造を行った役所跡

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銀座通りの歩道にある、うっかりすると見逃してしまいそうな碑です。こういうのに目が留まるのが、街道ウォークの醍醐味ですね!

9.新橋

 芝口御門跡 

 1710年、新橋という橋があったところに、芝口御門という派な城門が立ち、橋の名前も芝口橋に改められましたが、後に火災で焼失し、新たに架橋されて再び新橋と呼ばれるようになったということです。

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さぞかし立派な城門だったのでしょうね!

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京橋と同じく、新橋も、欄干を残すのみですね~

10.銀座柳の碑

明治7年(1874年)、歩道ができて柳の木が植えられましたが、関東大震災で焼失したということです。新橋の高架下には、若い柳の木が並木になっていて、往時がしのばれます・・・?

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11.日比谷神社

 虫歯封じの神さまだそうです! 土曜日のためか、社務所は閉まっていました。

 

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12.芝大神宮

 白い大きな鳥居が立派です。伊勢神宮の神様の天照大神豊受大神が祀られています。江戸町火消「め組」と力士の大喧嘩の舞台として有名です。

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翌日の例大祭を前に、なかなかの賑わいでした。台風接近で、お祭りがどうなったことか・・・ 心配です。

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重そうな力石。力比べをしたのでしょうか。誰が? 火消と力士かなぁ・・・

 ちょうどお昼時になったので、神社近くのお蕎麦屋さんに入りました。

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更科布屋 寛永3年(1791)創業です。

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野菜天せいろ 味は普通かな?


 13.浜松町由来碑

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またまた見落としそうな碑が、歩道にひっそりと。浜松町の由来にふむふむ。毎日通り過ぎる人に、ぜひ気づいてほしいなあ・・・!

14.金杉橋

 

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橋のすぐ脇に、元鎮守の金杉大明神があったそうですが、今はなく、金杉児童公園という小さな小さな公園になっています。

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金杉児童公園。この日は芝大神宮の例大祭の子供神輿の詰所になっていたようです。

 

15.芝橋

 芝橋の跡、見つからなかったです。芝四丁目の交差点のこの辺りかな? 江戸の町は、今よりもたくさん堀や川があって、橋もたくさんかかっていたのですね。

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16.西郷・勝会見の地

  三菱自動車のビルの前にある立派な碑です。これは見逃しませんね!

 勝海舟西郷隆盛が、江戸城無血開城の話し合いをした場所です。来年の大河ドラマのブームに乗って、訪れる人が増えるかも。

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17.元札の辻

  その名も「札の辻」という大きな交差点の歩道橋のたもとに、札の辻についての説明板がありました。

 

18.元和キリシタン遺跡

 住友不f動産三田ツインビル西館敷地奥。徳川三代将軍家光が、外国人牧師たち50人のキリシタンを処刑した場所です。

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右手の石段を登ったところに、碑があります。

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19.御田八幡

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20.高輪大木戸跡

  江戸府の出入り口の木戸があったところです。そうか、ここまでが、江戸なんですね!

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うっそうとした茂みになってます。どんな門があったのでしょうね? 出入りに厳しい検査があったのかしら?

21.高輪神社

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ここにも力石が。



22.高輪海岸の石

 高輪海岸に沿って作られた石垣にも強いられた石が展示されています。この辺りは海岸だったのですね。なんとなく聞いていましたが、改めてびっくりです!

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23.高輪稲荷神社

 品川駅前よりやや西寄りにある神社です。この日の終着点となりました。

 

 品川駅に着いたら、ちょうど雨がサラサラと降ってきました。なんとナイスなタイミング! 実を言うと、大木戸跡あたりから少々疲れて、集中力も途切れてきていました。次回は品川から川崎まで、今回よりかなり長距離になります。もっと体力をつけておかねば(汗)

 初めてのブログも、ここまで長かったこと・・・。慣れなくて、すごく時間がかかってしまいました。どのくらい? ちょっと恥ずかしくて言えないくらい・・・。ウォークよりも大変だったかも。おちらも、ぼちぼち慣れていきたいです。ウォークは2週間か1か月先になる予定ですが、その間にも、ちょこちょこ更新するので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 
 
 

 

 

東海道五十三次? その心は・・・

 はじめまして

 ブログ始めたてほやほやのルピナスです。始めたばかりでよくわからず、昨日はタイトルだけアップしてシャットダウンしてしまいました。今日は、なぜ東海道五十三次なのか、お話しします。

 事の始まりは、スマホ歩数計アプリが全く反応しなくなったことでした。アプリがダメになったのかとアンインストールして別の歩数計アプリをインストールしようとして目に留まったのが「徒歩でゆく~東海道五十三次というアプリでした。歩数をカウントしながら、バーチャルで東海道五十三次を旅できるという…。早速インストールしたものの、またまた動かず。何をしてもウンともスンとも言わずほとほと嫌になりました。数日して解決したのですが(データ使用量の設定で「バックグラウンドデータを制限する」をONにしていたのが原因でした。)、その時には「東海道すぐに試すぞ~!」という気はダウンしていて、「どうせならこれを日本橋でスタートさせて実際に品川まで歩いてみたら面白いんじゃないかな?」と思いついてしまったのでした。ついでに「品川まで行ったら、日を改めて、品川から川崎まで歩くバージョンはどうかな?」「箱根くらいまでなら行けるんじゃない?」とか、思い付きはどんどん広がって。

 「それで、どこまで行くの」って? そりゃもう、心は京都三条大橋まで飛んでしまっています。気候の良い春や秋、お天気のいい週末に、出かけて少しずつ歩を進めていきたいです。1年かかるか2年かかるか、いやいやもっとかな? いつかはたどりゆくことを夢見て。

 かねてからブログをやってみたいと思って、テーマを探していました。五十三次のスタートとともに、ブログもスタートします。超初心者ですが、よろしくお願いいたします。