てくてくわくわく 街道ウォーク

週末東海道てくてく歩き。東海道のことならなんでも聞いてくれと言えるようになりたい!

弥次さん・喜多さんを追いかけて 藤沢宿

 てくてくわくわく街道歩き、次回は戸塚駅前から藤沢宿をめざします。弥次さん・喜多さんを追いかける旅も、進めておきましょう。弥次さん・喜多さん、藤沢宿ではいかに?

 

 

物乞い

 親子のふりをしたばっかりに面白くもなく、酔いがさめて外の物音に眠れぬ夜を明かした弥次さん・喜多さん、気を取り直して出発です。ちなみに、宿は戸塚宿のはずれということでしたから、鉄砲宿のあたりかなと思われます。

 宿を出ていくらも歩かないうちに寄ってきたちょんがれ坊主(ちょんがれ節を唄う物乞い)、いくら追い払ってもしつこいこと。その言い草がおかしいので、ちょっと紹介します。

北「銭はねへㇵ」

坊「ナニないことがござりやしよ。道中なさるおかたには、なくて叶はぬぜにと金、まだも杖笠蓑桐油(杖、笠、蓑、雨合羽の旅支度です)、なんぼしまつな旦那でも、杖一本では歩かれぬ。その上田町の反ごん丹(薬の名前です)、コリヤさつてやのしらみ紐、ゑちうふどし(越中褌)のかけがへも、なくてはならぬそのかはり、古いやつはてぬぐひに、おつかひなさるが御徳用」

  まぁつまり、「いくらお金がないと言ったところで、旅をなさる旦那さんはそれなりの旅支度をしているのだから、お金がないわけないでしょー」と食い下がったわけですね。面倒になってついうっかり四文銭を投げてしまい、「こら待て、三文の釣りをよこせ」と言ったものの後の祭りの弥次さんでした・・・

 

インチキな団子屋

 乞食坊主にお金をとられ、「えい、いまいましい」と入った茶屋がまたインチキで。喜多さんが「ばあさん、団子はつめてへか。チトあつためてくんな」と普通に声をかけるのだから、いったいどうなっているんでしょうね? おばあさんが「ドレ、やきなをしてしんぜますべい」バタバタと灰をかきたててあおぎたてると、もうもうとホコリが立つのだから、ひどいもんです。そこへふらりと入ってきた60歳くらいの親父さんが、江ノ島への道を尋ねます。この親父さんはまともそう。弥次さんも最初はまともに答えるのですが・・・ そうそう、その弥次さんの説明が本当に広重の東海道五十三次の画のとおり正確なので、画を思い出して嬉しくなってしまいました。江戸時代の読者も、「あ、広重先生の画と同じだ!」「知ってる知ってる、画で見たことあるぞ。」と思ったんでしょうね。十返舎一九さん、もちろんそこを意識して書いていますね。遊行寺前の橋の景色は、浮世絵や旅案内で紹介されていて、多くの人に「それなら知ってる!」と言われるような名所だったのでしょう。

弥「こりよヲまつすぐにいつての、遊行さまのお寺のまへに橋があるから(中略 ここは喜多さんが茶々をいれてまぜっかえしています。)そのはしの向ふに鳥居があるから、そこをまつすぐに」

北「まがると田圃へおつこちやすよ」

弥「エゝ手めへだまつていろへ。ソノみちをずつと行と、村はづれに、茶やが弐軒あるところがある」

  最初は真面目に説明していた弥次さんですが、喜多さんが茶々ばかり入れるものですから(「曲がるとたんぼへ落っこちやす」みたいな)、つられて架空の町名を挙げたりして、話はあらぬ方へ。親父さんはあきれ果てて、「ここの人たちはらちが明かない。他へ行って聞きますよ。」と行ってしまいました。ホント、そうした方がいいですネ。

 

駕籠に乗る

 茶屋を出て藤沢宿に入ると、駕籠かきに、戻り駕籠なので安くするから乗らないかと声をかけられます。値段を聞いて、自分が半分担ぐからもっと安くしてくれとか、冗談を混ぜながらなんとかまけさせて、駕籠に乗った弥次さん、こういうものには乗り慣れていないようです。「中に人間が固くなっているから担ぎにくい」と駕籠かきたちが前と後ろで噂していると、中から弥次さんが、藤沢宿の「あそこの旦那は元気か」とか「だれそれはまだ勤めているか」など、あれやこれやと話しかけてきます。前の駕籠かきは、「いやはや、旦那は藤沢宿に詳しいな」と感心するのですが、後ろの駕籠かきは「べらぼうめ。知っていて当たり前だ」と。弥次さんは、籠の中で道中記(旅行案内 ガイドブックですね)を読んでいるのを、ちゃーんと見破られていたのです!

 やがて、駕籠は馬入川の渡しに到着します。喜多さんがここはなんという川かと人に尋ねると、肝心の川の名前を言わずに「渡しだ」としか答えないの見て、面白がった弥次さんが歌を詠みました。

川の名を問へばわたしとばかりにて入が馬入の人のあいさつ

 「渡し」に「私」(我)をかけ、「入が馬入」を「入我我入」(密教仏教の用語。如来が自己に入り、自己が如来に入り、両者が一体になること)にかけています。「お前が我か、我がお前か」が転じて、要領を得なくて無茶苦茶なこと。

 

白幡神社

 このあと白幡神社にやってきたことになっていますが、実際には白幡神社は馬入の渡より手前です。十返舎一九さんの間違いですが、ここはお愛嬌ということで。

 白幡神社義経の首を納め祀った神社です。そこで弥次さんの歌は・・・

首ばかりとんだはなしの残りけりほんのことかはしらはたの宮

 「首ばかりとんだ」(首を切られた)に「とんだ話」(意外な話)をかけ、「本当のことかは知らない」と「白幡の宮」をかけています。義経伝説を駄洒落のオンパレードにして「ホントかどうだか・・・」と言っている弥次さん、怖がりなのかな? 

 

使用テキスト

東海道中膝栗毛(上)』(十返舎一九作 麻生磯次校注 岩波文庫

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 浮世絵ウォーク 藤沢

 東海道の浮世絵を訪ねる旅、今回はこれ。歌川広重の「東海道五十三次」藤沢(遊行寺)です。

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 製作時期は天保3年(1832)~天保4年(1833)。板元は保永堂 です。

*ちなみに、お断りするのが今になってしまいましたが、これまで取り上げてきた画も保永堂版です。広重には東海道の風景を描いたシリーズがいくつもあり、このシリーズは一般に板元の名から保永堂版東海道と呼ばれています。構図の良さや着眼点が受けて、広重最高傑作シリーズとして大ヒットし、以後広重は、風景画の第一人者と呼ばれるようになりました。

 

人物

 この画は藤沢宿にあった江の島一ノ鳥居を遊行寺を背景にして描いたもので、副題も「遊行寺」となっています。鳥居の後ろに架かる橋は大鋸橋(現遊行寺橋)です。
 大鋸橋の上で鉢巻をして大きな木太刀を担いでいる人は、これから大山詣りに行く人です。大山(標高1253㍍。大山阿夫利神社があります)の大山石尊大権現は商売繁盛の神として多くの参詣者を集めていました。大山詣りでは、神社に木太刀を納めるということが行われていました。他ではない独特の様式だったようです。

 大山は、別名「あめふり山」とも呼ばれ広く親しまれてきました。このあめふりの名は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、古来より雨乞い信仰の中心地としても広く親しまれて参りました。

 奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社となりました。そして、武家の政権始まった後も源頼朝公を始め、徳川家等の代々の将軍は当社を信仰し、そして武運長久を祈りました。庶民からの崇敬も厚く、人々は「講」という組織を作り挙って大山へ参拝をしました。隆盛を極めた江戸期には年間で数十万が訪れたと記録されています。「大山詣り」と呼ばれた当山への参詣は古典落語の中でも語られ、著名な浮世絵師によって多くの浮世絵も残されています。そうした作品に描かれた躍動感溢れる人々の姿からも、いかに大山が当時の人々にとって身近な存在であったかを窺い知ることが出来ます。
 また人気を博した大山詣りを背景に、多くの独特な文化が生み出されたことも大山の特徴です。源頼朝公が刀を納めた事から起こった木太刀を納める納太刀、当社の御祭神が富士山の御祭神である木花咲耶姫の父君に当たることから「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」と伝えられ、大山と富士山の両山をお参りする「両詣り」も盛んに行われました。一部地域では、大山に登れば一人前として認められると伝承されていたとも云われ、立身出世の神としても知られています。(大山阿夫利神社ホームページより)

www.afuri.or.jp

 大鋸橋を渡ってきて大きな鳥居をくぐろうとしている剃髪した4人の人たちは、杖をついています。(一人は小坊主です) 手前3人の表情を見るとどうやら目が見えていない様子。彼らは座頭で、音曲や按摩を業としていました。座頭たちが潜り抜けようとしている鳥居は、江ノ島弁財天への入り口であり、東海道から分かれた江ノ島道へ続きます。(現在でも遊行通りという名前のこの道をただただひたすら歩いて行くと、本当に江ノ島に到達します!) 江ノ島弁財天は、音楽や福の神様で、一般の信仰も篤く、元禄頃の杉山険校が弁財天の霊験によって鍼術の妙技を感得したと伝えられたため、座頭の参詣も多かったのです。
 この画の登場人物たちは、大山と江ノ島という二つの霊場の存在を物語っているのです。藤沢宿は、両地への参詣者で賑わっていたことがよくわかります。

 

構図

 境川の流れに橋が架かり、対岸は戸塚宿側です。対岸から橋を渡ってきて鳥居のある江ノ島道とは反対の右手に折れると、画には描かれていませんが藤沢宿の旅籠が軒を並べているはずです。保永堂版の多くの図が、江戸から京都へ向かう旅を想定して描かれているのですが、この画に関しては対照的なのはなぜでしょうか?

 おそらく広重は、遠景の山の上にそびえる遊行寺の堂々たる姿を、しっかりと描ききりたかったのだろうと推察されています。この図の副題が遊行寺であることも、それを裏付けています。遊行委の伽藍を描くには視点を戸塚側に置かなければならなかったのです。

 また、鳥居を手前に大きく、しかも背後からとらえる構図は大胆かつ機知に富み、特徴的です。広重が視点を戸塚側に置いた狙いは、遊行寺を描くことだけではありませんでした。

 さらに、視点をわりと低くしていることにも着目したいです。先ほど見たような手前の人物の細かな描写に目線が誘導されますし、低いところから見上げることで遊行寺の山はより高々とそびえているように見えます。橋向こうの民家の屋根は低めに描かれ、林立する樹木も低く抑えられていて、背後の遊行寺が、その威容をまざまざと見せつけるような構図になっているのです。

 

追記

 

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 こちらは同じく広重による「隷書東海道」に描かれている同じ場所の風景です。

(広重の 「東海道五十三次」には、保永堂版の他に、行書版と隷書があり、三大傑作シリーズと言われています。)

  隷書では、夜の藤沢宿の場面が描かれています。画面右側にある鳥居が江の島道の入口である江の島一ノ鳥居 、画面中央にあるのが大鋸橋 (現・遊行寺橋)です。宿場に着いた人々や客引きなど、様々な人々の様子が描かれ、当時のにぎわいが感じられます。それにしても、同じ賑わいでも昼間のものとはさすがにずいぶん様子が異なるものですね。

 

【参照】 

『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信 岩崎均史 小学館

『謎解き浮世絵叢書 歌川広重保永堂版東海道五拾三次』(町田市立国際版画美術館 二玄社

藤沢市藤澤浮世絵館ホームページ

www.fujisawa-ukiyoekan.net

電子博物館・みゆネットふじさわホームページ

www.fujisawa-miyu.net

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クローズアップ! 藤沢宿

 険しい権太坂を前に、早めの宿に入る保土谷宿、江戸から歩きに歩いて最初の宿泊地になった戸塚宿。ライバルであった両宿の先にある藤沢宿とは?

 

 藤沢宿を、あえて一言でいうならば、「古くから旅人でにぎわってきた観光地」といったところでしょうか。江の島・鎌倉・大山道との分岐点として、観光地に向かう旅人の足場になる宿駅でありました。同時に、踊り念仏を広めた一遍上人が開いた時宗の総本山・遊行寺の門前として江戸よりはるか昔から栄えていて、まさにここが観光地でもありました。

 どういうことか、詳しく説明していきましょう。

 

 

藤沢宿成立以前

 藤沢宿東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場ですが、宿駅としての歴史はさらにさかのぼることができます。

 古代藤沢が初めて記録に登場するのは天平七年(735)、鵠沼辺りと推定される「土甘郷」が見えます。また片瀬郷から朝廷に布が献上され、延喜式には大庭神社と宇都母知神社が見えます。鎌倉権五郎景正は境川から相模川に至る高座郡の南部一帯を開発し、荘園として伊勢神宮に寄進しています(大庭御厨)。
 頼朝挙兵に際して、大庭景親は平家方として参戦、片瀬河原で斬首されました。時宗の開祖一遍は、鎌倉入りを阻まれ片瀬で踊り念仏を行うなどして布教を行い、正中二年(1325)、遊行四世呑海は藤沢道場(清浄光寺・通称遊行寺)を開山しました。以後遊行寺は戦乱のためたびたび炎上しています。
 永正九年(1512)、小田原の北条早雲玉縄城を築城、三浦氏に備えるなどし、関東侵略の重要拠点としました。江の島は古来霊地として縁起などにも描かれていますが、小田原北条氏は信仰の島としてだけでなく軍事的な重要拠点として関銭などを徴収して保護しています。弘治元年(1555年)には藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置かれ、交通上の要地になり、天正十八年(1590)、小田原北条氏が滅び家康が関東に入ると、御殿と陣屋が置かれ地域支配の拠点となりました。

 

藤沢宿成立以降

 慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれ(17世紀半ばに廃止)、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立しました。伝馬の常置が義務づけられ、交通の要衝として、大山や江の島参詣の足場として栄えました。

 近世後期になると地域の商品流通や文化の拠点となり、幕末には打ち壊しやええじゃないか騒動があり、人々の世直し意識が高揚しました。

 

範囲・規模

 宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附まででした。
 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」に、宿内人口4,089人(男2,046人、女2,043人)で、総家数919軒、旅籠(はたご)45軒、大名や公用の旅客の宿泊施設である本陣が1軒、脇本陣が1軒と記されています(享和3年(1803年)の記録では脇本陣は2軒)。「東海道宿村大概帳」に記載されている神奈川県内の他の各宿場の人口・家数・旅籠数と比較すると、当時の藤沢宿は、人口では城下町であった小田原宿、大きな湊でもあった神奈川宿に次いで多かったものの旅籠数は比較的少なかったそうです。


特色

 「東海道宿村大概帳」は、藤沢宿の名物を「大山詣で(もうで)、江ノ島弁財天詣で」と記していますが、江戸時代の藤沢宿の特色の一つは多くの道が集まる場所であったことです。メインの東海道を西へ、四ツ谷から北東に分かれる大山道(大山阿夫利神社大山不動尊へ)、南へ下る江の島道(江島神社へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあり、流通の中心地となりました。当時の代表的な名所・旧跡としては、(1)江戸方口にある清浄光寺(しょうじょうこうじ。通称は遊行寺)、(2)宿場から一里ほど南へ歩いたところにある江の島(江島神社)を象徴する一ノ鳥居、(3)京方口近くにある「義経首塚及び首洗い井戸」とゆかりの白旗神社義経を祭神とする)の三つが挙げられ、いずれも浮世絵に描かれたり、道中記(旅行案内書)に記されたりしています。遊行寺については寺院への参詣とともに、同寺ゆかりの「小栗判官照手姫」の旧跡が観光のメインでした。また、宿場の西の立場(たてば。宿と宿の間の休憩地、人馬の継ぎ立て場)であった四ツ谷(大山道の分岐点(追分)でもある)や南湖(茅ヶ崎市)の松並木、左富士も藤沢宿の名所として浮世絵などに紹介されています。

 こうした観光地への足場であった華やかさの裏では、影の部分もあり、藤沢宿ではそれが顕著でもありました。すなわち、飯盛女の存在です。飯盛女は旅籠で働く表向きは女中ですが、夜の相手もする女性です。飯盛女を置く旅籠は繁盛しました。宿駅の乱れを是正するため、幕府は旅籠の抱える飯盛女を2名までに制限しましたが、必ずしも守られていませんでした。多くの旅人でにぎわった藤沢宿では、たくさんの飯盛女が働いていました。貧しい家の出で、売られ身の女性たちは、最後まで藤沢で生きるしか術はありません。飯盛旅籠の主人・小松屋源蔵は栄勝寺に飯盛女の墓39基を造り、48人の法名を刻んで弔い続けたことが記されています。


近代の旧藤沢宿地区

 地域における流通の中心地であった旧藤沢宿地区は、明治時代になって宿駅制度が廃止されたのちも賑わいを保ち、周辺の農村地帯からの麦・米等の農産物を買い取る一方、農産に必要な肥料等の販売を行う「米穀肥料商」が繁盛し、資本を形成しました。
藤沢における最大の文明開化は、明治20年(1887)の鉄道開通です。宿場の南に鉄道の駅(藤沢停車場)ができたことで、徒歩による街道の通行者は減少しましたが、旧藤沢宿地区は問屋街に転身して、地の利を生かした広範な商品流通の場となり、地元資本による銀行の設立など、地域経済の核としての役割を担うようになりました。明治22年(1889)の市町村制により市域を含む9カ町村が誕生。明治41年(1908)に藤沢大坂町、鵠沼村、明治村を廃止し、その区域に藤沢町が誕生しました。
 その後、大正12年(1923年)の関東大震災による被災に加え、昭和初期の経済恐慌のあおりを受けた銀行の倒産など、繁栄にもかげりが見え出し、明治41年(1908年)に誕生した高座郡藤沢町(旧宿場地区と鵠沼村、明治村が合併)の賑わいの中心は、町南部の観光地化、別荘地化とも相まって、次第に南の藤沢駅周辺に移行していきました。

 昭和15年(1940)には市制が施行され、その後次第に周辺町村を合併編入し、昭和30年(1955)、現在の規模となりました。

 

参考

『「東海道五十七次」の魅力と見所』(志田威 交通新聞社

『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信 岩崎均史 小学館

藤沢宿交流館ホームページ

www.fujisawa-kanko.jp

国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所ホームページ

東海道への誘い

 

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

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先取りふむふむ 戸塚→藤沢②

 次回の事前チェック後半は、藤沢市内に入った所から見ていきましょう。

 


旧東海道松並木跡碑・遊行寺の一里塚

 安藤広重東海道五十三次を彷彿させるような松並木が茂り「緑が丘」と呼ばれていましたが、1969年代にマツクイムシの被害で大半が枯れてしまったそうです。ガイドブック(『ちゃんと歩ける東海道五十三次』)に「遊行寺一里塚」の表示があるのですが、一里塚跡はもう少し先です。モニュメントか何かがあるのでしょうか? 行って確かめてきます。

小栗判官墓(長生院)

 遊行寺の本堂に向かって右脇の坂を登っていくと、古くは閻魔堂といわれた長生院に至ります。別名小栗堂とも呼ばれ、歌舞伎などでよく知られる小栗判官・照手姫ゆかりの寺と伝えられています。常陸国茨城県)小栗の城主であった小栗満重は上杉禅秀の乱で禅秀方について戦い、禅秀廃死後に足利持氏に降りましたが多くの領地を没収されました。それを不満とした満重は、その後反乱を起こし小栗城にたてこもりますが、応永二十九年(1422)、持氏に攻められ落城します。満重の子助重は、わずかな家臣を連れて三河国の一族を頼って逃げのびる途中、この藤沢で毒殺されかけますが、妓女照手がその毒殺計画を助重に告げたため助重だけは一命をとりとめ、遊行寺に駆け込み遊行上人に保護されました。その後、助重は、勢力を盛り返し、照手を捜し出して妻に迎えました。助重の死後、照手は髪をおろして長生尼と名乗り助重と毒殺された家臣の菩提を弔って生涯を過ごしたといいます(『鎌倉大草紙』)。これが長生院の由来で、境内には小栗主従と長生尼の墓と伝えられる墓石があります。
長生院の所蔵する南北朝時代時宗板碑2基(延文元年銘・1356、永和三年銘・1377)は、江戸時代に遊行寺境内から発掘されたもので、市指定文化財となっています。(遊行寺宝物館に展示)


一里塚跡

 遊行寺の一里塚。日本橋から十二里目。塚木は榎でした。


江戸方見付跡

 事前情報なし。当日のお楽しみです。

諏訪神社

 遊行寺から旧東海道を渡った向かいの丘の上に、藤沢宿東方面の総鎮守である諏訪神社があります。祭神は建御名方命ほかで、遊行寺を創建した呑海が山中鎮護のために勧請したといわれています。明治維新後の神仏分離政策によって遊行寺から独立しましたが、いまでも祭礼の時には神輿が遊行寺に渡ります。祭礼で演奏される西富ばやしは大太鼓1、小太鼓2、すり鉦1、笛1で演奏する鎌倉ばやし系統のいわゆる五人ばやしで、市指定の民俗文化財です。

遊行寺・藤沢敵味方供養塔

 いろは坂を登り切って山門跡に立つと、遊行寺清浄光寺)の広々とした境内が見渡せます。正中二年(1325)遊行四代呑海上人が、実兄である地頭俣野五郎景平の援助によって、極楽寺という廃寺を再興して、遊行引退後の住まいとしました。これが藤沢山清浄光院(のちに清浄光寺)となった時宗の総本山です。宗祖一遍上人は念仏を勧める賦算(「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記したお礼を配ること)と信仰の喜びを踊りであらわす踊り念仏で、みなことごとく往生安楽の境地へ至ることができると説いて諸国を遍歴しました。それにならって歴代の上人も遊行を続けたので遊行上人と呼ばれ、当寺も遊行寺の名で通るようになりました。本堂に向かって左側の鐘楼には、延文元年(1356)の銘を持つ県指定文化財の梵鐘が吊られています。この梵鐘は、呑海によって創建されてから約三十年後の遊行八代渡船上人の代に、仏殿造営の総仕上げとして鋳造されたものです。その頃の遊行寺は開山以来の隆盛を誇り、南北朝の激しい戦乱の時代に、人々の幸福と平和への願いがこめられてこの鐘が造られたといってよいでしょう。他に国定忠治の子分、板割の浅太郎のお墓があります。
 応永二十三年(1416)、上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏に対して乱を起こし、その戦火は関東一円に及びとりわけ藤沢をおびやかしました。戦乱後、遊行上人は時宗の人々と共に、敵味方の区別なく多数の将兵や軍馬の遺骸を収容し、手厚く葬りました。三周忌にあたる応永二十五年に建てられた供養塔が、境内東門近くに残る国指定史跡・敵味方供養塔です。
 境内中央にある市指定天然記念物の大イチョウは、数本の乳状突起をもつ古木です。古くは「屏風をたて並べたようだ」(『更級日記』)といわれた西富の丘で、長い年月に渡って藤沢の町の移り変わりを見つめ、そこに生きた人々の喜怒哀楽を美しい秋の黄葉に包み、なお悠然とかまえています。
 また、当寺には国の重要文化財にも指定されている後醍醐天皇画像、一向上人画像、時宗過去帳、六時居讃、安食問答などをはじめとした多くの寺宝が伝わり、宝物館に安置されています。

 現在の建物の大部分は関東大震災後に復興されたものですが、中雀門は唯一、江戸時代からのもので向唐門造り。菊の御門と三葉葵が 刻まれています。

 
遊行寺橋(高札場跡・江ノ島神社一の鳥居跡)

 藤沢橋交差点の近くに赤い遊行寺橋が見えます。江戸時代には東海道は、この橋を通っており、当時はここが江の島道との分岐点でもありました。江戸方面から東海道を上り橋を渡ると、少し南に江の島道入口としての一の鳥居があり、その袴石は、現在、遊行寺宝物館の入口に保存されています。そして、本道は西に続きます。橋の袂には、江戸幕府からの法令、通達の類を知らしめる高札場(コウサツバ)が立っていました。

紙問屋(桔梗屋

 桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家です。本社は横浜に移転しましたが、現在も藤沢の店蔵は支店として営業を続けています。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開きの塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝えています。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えています。

藤沢御殿跡

 妙善寺から東に五分程歩くと御殿橋があり、足をのばして川沿いに登ると陣屋小路の石仏郡があります。江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために今の藤沢一丁目あたり(藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくりました。絵図面によると東西約193m、南北約113mの長方形の区画で、記録によると「慶長五年(1600)に家康が宿泊して以来、寛永十一年(1634)に家光が使用したのを最後に廃止の道をたどりました。御殿の周辺には御殿を管理する代官陣屋が配置され、陣屋小路をはじめ御殿辺などの地名や陣屋橋、御殿橋といった橋の名に今では往時のなごりをとどめているのみです。

本陣跡(蒔田源右衛門本陣跡)

 このあたり一帯が藤沢宿のあったところで、歩道には本陣跡を記す案内板がたっています。本陣というのは、宮家、公家、大名が休泊した施設で、13間あり、一般庶民は休泊できませんでした。江戸時代初期は大久保町の堀内家が藤沢宿の本陣でしたが、類焼のため坂戸町の蒔田家が明治三年まで約百二十年間その要職にありました。総坪数約400坪、門構え庭園等があり堂々たる家でしたが、現在は妙善寺にその墓域を残すのみとなってしまいました。藤沢宿には、享和三年(1703)当時で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅篭46軒がありました。また、人馬の割付・管理を行う問屋場が旧大久保町(近藤眼科医院付近)と旧坂戸町(消防署本町出張所付近)に設けられていました。

松屋

 旅籠小松屋源蔵跡

 

妙善寺

 白旗神社から白旗川ぞいに東に向かい、市民病院前から道沿いにカーブして南へ進みます。100mほどいった十字路を左折すると、左手に妙善寺(日蓮宗)のいらか屋根の山門が見えます。創立は永正元年(1504)、墓地の一角には本陣職を務めた「蒔田家」の墓が往時の隆盛を偲ぶようにたっています。

常光寺

 旧東海道(現国道467号線)から消防署の脇を入ると、明治五年に警察署の前身である「邏卒屯所(らそつとんじょ)」が置かれた常光寺(浄土宗)があります。創立は元亀三年(1572)、本堂左脇に市指定文化財の「庚申供養塔」が2基あります。万治二年(1659)の銘をもつ庚申塔は、庚申講中が建立した浄土宗系のものとして貴重です。もう1基(寛文九年銘・1699)は、笠石が軽快な感じを与えます。墓所を包むようにひろがる約7900㎡の静かな寺林は、天然記念物として市の指定を受けています。ひときわ目を引くのは、高さ約25m、推定樹齢300~400年にもなるカヤの巨木で、県選定の「かながわの名木100選」にも挙げられています。境内には、英文学者で詩人の「野口米次郎(1875-1947)」の碑があります。米次郎は「ヨネ・ノグチ」の名で英・米詩壇で認められ、帰国後も浮世絵をはじめ日本の文化、文芸を世界に紹介しました。碑には、彼が詠んだあじわい深い詩が刻まれています。

永勝寺

 旧東海道(国道467号線)から農協藤沢支所の手前を入っていくと、やがて永勝寺浄土真宗)に着きます。創立は元禄四年(1691)、山門を入ってすぐ左の墓所に、旅籠屋を営んでいた小松屋源蔵の墓を囲むように39基の飯盛女(食売女・メシモリオンナ)の墓が、ひっそりと立ち並んでいます。天保六年(1835)当時、主に大鋸から遊行寺橋にかけて、27~28軒の飯盛女をかかえた飯盛旅籠屋がありました。飯盛女は、遊女に代わって出現した公認でないいわゆる私娼で、旅籠屋1軒につき2人までしか置けないことになっていました。なかにはそれを守らず数人の飯盛女を置いていたところもあったようで、実際には、全盛期で100人近い飯盛女が藤沢宿にいたとみられています。こうした女性たちの多くは、宿内や周辺の年貢課役に苦しむ農村、あるいは伊豆、遠江駿河等の出身で、借金の返済などのために働いていたのですが、その扱いはひどいもので、小松屋のように墓を建てて葬るというのは大変珍しいことでした。

義経首塚

 旧東海道(国道467号線)沿いのかながわ信用金庫とマンションの間の小道を入っていくと、公園の片隅に伝義経首洗い井戸があります。義経は兄頼朝に鎌倉を追われ奥州平泉に逃げていましたが、文治5年(1189)藤沢泰衡は亡父秀衡がかくまっていた義経を攻め、ついに衣川で義経を自刃させました。平泉から鎌倉に送られてきた義経の首は、首実検の後に片瀬の浜に捨てられたといわれています。潮にのって境川をさかのぼり白旗神社付近に漂着した義経の首を里人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたということです。一説によれば、鎌倉に入る前に首実検に備えて化粧を施したとも、また、夜間に鎌倉方面から、首が目を見開いて亀の背に乗り飛んできたとも伝えられます。

白旗神社

 旧東海道(国道467号線)の白旗交差点を北に向かうと、藤沢宿西方面の総鎮守である白旗神社の大きな鳥居が見えてきます。古くは寒川比古命を祀っていたといわれます。

 また、奥州平泉で敗死した義経の首級は鎌倉で首実見された後うち捨てられ、これを里人が拾って井戸で洗い清め葬り葬られたと伝えられるところから、宝地三年(1249)義経も合祀するようになったといいます。例大祭には義経・弁慶2基の神輿が氏子町内をねり歩き、大変賑やかです。また、秋祭りに行われる市指定文化財となっている「湯立神楽」は、面をうけた山ノ神が道化を演じながら参拝者に餅をまくなど独特な神事として知られています。本殿に向かう石段の下には、さまざまな形態の庚申塔の一群が見られます。その中には、市指定文化財の庚申供養塔(寛文五年・1665)もあり、右側面に「此よりはちおうしかいとう」、左側面に「これよりほしのやかいとう」と刻まれ、かつて二つの道の岐路にたてられていたと推察されます。庚申供養塔群の片隅には、市指定文化財の江の島弁財天道標が1基あり、さらに境内藤棚近くに、芭蕉の『吉野行脚」の「草臥亭(くたびれて)宿かる此や藤の花」の句碑(文化二年銘・1805)がたてられています。境内に義経松、弁慶杉、弁慶力石があります。

草臥亭(くたびれて)宿かる此や藤の花 松尾芭蕉

 

 参考

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』」(八木牧夫 山と渓谷

藤沢宿交流館ホームページ

www.fujisawa-kanko.jp

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。今回の記事は、藤沢宿交流館のホームページを参照させていただきました。「藤沢宿」交流館は、遊行寺の近くにあります。立ち寄るのをとても楽しみにしています。

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先取りふむふむ 戸塚→藤沢①

 本日より、次回ウォーク、戸塚→藤沢の事前チェックに入ります。本来ならば、保土谷→戸塚のお宝特集(歩いてパチリした説明板の数々)をアップするのですが、今月のファイル利用量が早くも66%になってしまいました。写真のアップをしばらく抑えめにするため、「旅のお宝」編は後回しにします。旅ブログは、どうしても写真が多くなってしまいます。気にせずアップできるように、はてなプロにしようかな? いやいや、月額1000円は高くないか? などなど迷い中。

 それはさておき、戸塚駅前からチェックを開始しましょう。

 

 

清源院

 浄土宗のお寺で徳川家康の側女お万の方(清源院殿)ゆかりのお寺です。本尊は徳川家康から拝領したといわれる歯吹阿弥陀如来で、境内には松尾芭蕉の句碑、心中句碑、お万の方の遺骸火葬跡の碑があります。また本堂脇の朝日堂は鎌倉郡三十三観音二十二番札所で千手観音が祀られています。

世の人の見つけぬ花や軒の栗 松尾芭蕉

井にうかふ番(つが)ひの果や秋の蝶 心中句

 

内田本陣跡

 規模は間口十八間、奥行十四間百五十二畳でした。

 

問屋場

 問屋場とは宿駅伝馬制度の要となる施設で、公用旅行者や大名などの荷物の運搬、積み立て、人足や伝馬の確認、駄賃の授受などをする役所です。戸塚宿には、矢部、吉田、戸塚三カ所の問屋場があり、毎月1日から4日は矢部が、5日から11日は吉田が、12日から晦日までは戸塚が担当していました。

 

脇本陣

 事前の情報はありません。当日のお楽しみ。

 

澤邊本陣跡

 澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣の一つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の解説にあたり幕府に強く働きかけた功労者です。「明治天皇行在所跡」の碑があります。

 

羽黒神社

 澤邊本陣跡の敷地の一角にあります。戸塚宿の鎮守の一つです。弘治2年(1556)に澤邊河内丸信友が羽黒大権現を勘請したのが始まりと言われています。

 

海蔵院

 臨済宗円覚寺の末寺、貞治2年(1363)の創設。本尊は釈迦如来。山門には龍の彫刻、戸塚の俳人長坂志行の墓(塾生たちの謝恩の建碑)があります。宿場時代、当山の晩鐘は「戸塚十勝」の一つに選ばれ、戸塚宿中に親しまれていました。

 

八坂神社

 通称「お天王さま」として親しまれている戸塚宿の鎮守です。元亀3年(1572)に、牛頭天王社を勧請したのが始まりと言われています。境内には明治天皇東幸碑があります。毎年7月14日に行われる「お礼まき」は、無病息災を祈願して横浜市指定無形民俗文化財になっています。神社脇の東海道鎌倉道が交差するあたりに高札場がありました。

 

冨塚八幡

 戸塚宿の総鎮守で祭神は譽田別命(応神天皇)と富属彦命の二柱です。源頼義・義家父子がここに野営し夢で応神天皇の神託を受け戦に勝利したことに感謝し延久4年(1072)に社殿を造りその御霊を勧請したとのことです。山頂の古墳は富属彦命の墳墓とされており「富塚」と呼ばれこれが戸塚の地名の起こりとも言われています。境内には松尾芭蕉の句碑もあります。

鎌倉をいきて出けむはつ松魚(かつお) 松尾芭蕉

 

秋葉神社

 諏訪神社が合祀されています。

 

上方見付跡

 江戸見付から約2.2㌔の距離にある戸塚宿京方の出入り口です。現在は道の両側に1.5㍍ほどの石の囲いがあり、昔と同じように京に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられています。ここから京方は数々の浮世絵の背景に登場する長大な大坂の上り坂が続いています。

 

第六天

 古事記日本書紀で第六番目に出現したとされる両足命らが祭神です。境内には産魂祠天保10年(1839)と道路に面した藤行翁之碑安政元年(1854)があります。近傍の道端に延宝5年(1677)から寛保3年(1743)に建てられた7基の庚申塔が建てられています。

 

坂木稲荷社

 事前情報なし。当日のお楽しみ。

 

庚申塔

 正徳4年(1714)や元禄8年(1696)建立の庚申塔など8基あります。

 

馬頭観音

 文政9年(1826)の建立

 

大坂の碑

 一番大坂、二番大坂、白土坂の三段に分かれます。

 

お軽勘平道行碑

 『歌舞伎仮名手本忠臣蔵』のお軽勘平の「戸塚道行の場」にちなんで作られたものです。七代目市川團十郎、三代目尾上菊五郎などの名優の演技と清元の名調子から、当時江戸では大変な評判でした。

 逃避行の場で勘平はお軽に「此処は戸塚の山中石高道で足は痛みはせぬかや」といたわっています。

 

一里塚

 原宿の一里塚跡。日本橋より十一里目。塚の付近には茶屋があり、原宿と呼ばれるようになりました。吹上の一里塚とも言われています。当時は松の木が植えられていました。明治9年(1876)に里程標の杭をたてるとき一里塚は不要になったので取り払われました。

 

浅間神社

 原宿村の鎮守。室町時代の永禄年間(1558~1570)にその頃盛んであった富士信仰をもとに村内安全を祈願するために勘請されたと言われています。鳥居は安政5年(1777)の建立。境内には樹齢600年を超えると言われる多くの椎の木があり、西には遠く富士山や箱根連山を見ることができます。横断歩道を渡った所に浅間神社入り口があります。

 

大運寺

 浄土宗のお寺で慶長元年(1596)に創建されました。本尊は阿弥陀如来です。境内にはかつて観音堂、庚申堂がありました。また境内にあった弘法池は、今は大正団地内にあり、池の中に窟があった弘法大師作と言われる石地蔵は現在本堂に移され、その複製品が窟に祀られています。一心経一巻雷獣肉附毛地蔵画があります。歩道橋を渡った所に大運寺入り口があります。

 

青面金剛

 戸塚区原宿町第二歩道橋の袂にあります。像は庚申信仰によるもの。傍らには西國順礼供養塔があります。

 

名残り松

 事前の情報はありません。当日のお楽しみ。

 

道祖神・馬頭観世音

 村の厄除けと旅人の安全を祈るもの。文化8年(1811)銘の石仏があります。戸塚区影取町第一歩道橋の所。

 

龍長院参道口

 曹洞宗天王山。参道口には智証大師霊作天王山不動尊があります。鎮護国家の祈願所。

 

諏訪神社

 創建年代は不詳ですが明治4年(1907)に山谷仲町からこのあたりに移転して出来た神社です。昔、社の裏に大蛇が棲む池があり、池に映る旅人の影を取って喰ったと言われ、これが影取の地名の由来になりました。影取池の大蛇を鉄砲で撃ち取った猟師が住んでいたというこの辺りが鉄砲宿と呼ばれていたことから、式神諏訪神社を勧請したと言われています。境内のクスノキ横浜市名木古木指定。

 

道祖神

男女双体道祖神。祠に納まっています。歩道橋脇。

 

 ここまでが戸塚区になっています。この先藤沢市になるので、ブログも一区切りとします。ここまで読んでくださってありがとうございました。

 

参考

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社

横浜市戸塚区ホームページ

横浜市 戸塚区役所 旧東海道戸塚宿の歴史を歩く散策マップ

 

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「まちなみ」ウォッチ 保土ケ谷→戸塚②

 保土ケ谷→戸塚の「まちなみ」ウォッチ後半です。

 東戸塚駅前にあるイオンのフードコートで、ささっとお昼を食べて、また歩き始めます。

 

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 しかしまあ、東戸塚の駅前って、大きなマンション、たくさんですねえ!

 

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 駅前はあんなに近代的なのに、旧道に入ると、いたってのどかな風景に。しばらく果樹園が続きます。葡萄棚、紅葉してきれい。

 

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 果樹園の木の間に、旧街道の表示を発見。溶け込んでいて、いい感じ。

 

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 品濃坂歩道橋上から小田原方面を見ています。そういえば、葛飾北斎富嶽三十六景・程ヶ谷の画、どこから描いたのか諸説ある中、品濃坂が有力なのではないかと、以前ブログで書きましたが、この辺りですかね?

kaz-mt-wisteria.hatenablog.com

 

 

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 歩道橋を渡っても、まだまだ下り坂が続きます。はぁ、結構なアップダウンですね。はぁ・・・ こりゃ、江戸の旅人は大変だ・・・

 

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 しばらく、川上川に沿って、ひたすらてくてく歩きます。特にチェックポイントもなく、こんなふうにながーい道です。

 

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 赤関橋まで来て、川上川を渡ります。橋の欄干に、江戸の旅人が。小さな発見が嬉しいです。

 

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 王子神社は小高い丘の上にあります。幅の狭いこんな道で、山里みたいです。丘のすぐ下は交通量の多い国道なんですけどね。

 

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 王子神社入り口で、くろやぎ(同行者・夫)が見つけた「御料馬控處」の石柱。ここに、馬をつないだのかと思うと、一気にタイムスリップしそう。

 

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 神奈川県名木百選に指定されている益田家のモチの木の奥には、つい最近まで茅葺屋根の旧家が残っていたようですが、今はありません。

 

 

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 大山道の入り口です。駐車している車の先に、赤いポールがあるのがわかりますか? その近くに、不動明王像や庚申塔があります。

 

 ガイドブックによりますと、鎌倉ハムの製造を始めた斉藤家の土蔵と棟門が見えてくるということですが・・・ないですねぇ。ありゃ、これもなくなったのでしょうか? 稲門のすぐ近くにあるという赤レンガの倉庫は残っていましたが、特に表示もなく、果たしてこれでいいのか不安に。不安なまま10メートルほど行きますと、「斉藤牛肉店」がありました。やっぱり、あの赤レンガの建物でよかったんだな。

 斉藤家は明治20年頃、イギリス人のウィリアム・カーチスからハムの作り方を伝授されたということで、ここは「鎌倉ハム」誕生の地です。

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 ハム誕生の地。どんなハムなんでしょうね。興味津々。お店が開いているときに来て、、お土産に買って帰りたいです。

 

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 江戸方見付跡があるレストラン・フォルクス。植え込みの看板にこんな江戸時代の旅人の様子が描かれた絵が。お店の心遣いに拍手。

 

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 街道沿いで、野菜が売られていました。特に珍しいことではありませんが、なんだかとっても和む情景だったので、パチリしてしまいました。

 

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 広重の「東海道五十三次・戸塚宿」の画の場所の吉田大橋です。広重の絵の頃から、橋上の往来は賑やかでしたね。

 橋の手前の壁面タイルに、広重さんの吉田大橋の画がはめ込まれていました。往時を想像しながら、渡ってみましょう。

 

kaz-mt-wisteria.hatenablog.com

 

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 大橋上より北方向を見ています。

 

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 本日のラストスパートです。戸塚駅に向かう手前にあったお医者さん。

 

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 かつては丘の上にあった山王祠は、矢部トンネルの丘公園の中に移転しています。写真中央よりやや上に祠があるのが見えますか? ちなみに「矢部トンネルの丘公園」は、地元の小学校の児童による命名だそうです。

 

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 JR戸塚駅に到着しました。大きなバスターミナルが印象的な駅でした。ローカルな程ヶ谷駅から出発しましたが、ここは目が回りそうです。私も普段、ローカルな駅を利用している住人なので。やれやれ。

 

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

 

 


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「まちなみ」ウォッチ 保土ケ谷→戸塚①

 神社・仏閣、名所・旧跡もいいけれど、てくてく歩きながら何気ない町並みの中にかつての宿場の名残を発見したり、江戸の旅人のたどった道を現代の風景に重ねてロマンを感じたり。過去と現代が交差する「まちなみ」観察リポートです!

 

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 保土ケ谷駅前ロータリーです。日曜日の朝、人影はまばらで閑散としています。これまで、日本橋、品川、川崎、東神奈川が起点でしたが、ここはかなりローカルですね。

 

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 前回ここを通った時は3時半をまわり夕方の風情でしたが。朝の保土ケ谷駅前の商店街です。「宿場通り」の幟に、俄然やる気が出ます。

 

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 「助郷会所跡」は「北川製粉所」になっています。裏にこんな大きな建物があったんですね。前回は全く気が付かなかったです。失礼しました。やっぱりウォークの最後は、注意力・集中力が落ちていましたね(汗)。

 

 この宿場通りから刈部本陣に出たあたりで、街道ウォークらしき方を何組か見かけました。9時という時間と起点・保土ケ谷。考えることは一緒(笑)。ついでに言うと、私がバイブルにしている『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社を持っている方がいて、しかも私と同様コピーしてつなげて持っていたので、びっくり。自分ではなかなかいいアイデアだと思っていたけど、みんな考えることは似てますねぇ(笑)。

 

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 「江戸」な佇まいの保土ケ谷町自治会会館分室です。玄関前に街歩きのパンフレットが置いてあり、中にいる方に道を尋ねることもできるようです。ちょっと腰を下ろして、飲み物をいただいている人もいました。魅力的でしたが、先を急ぎます・・・

 すてきなはからいですね。

 

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 外川神社前の国道1号線東海道)。松並木プロムナードです。保土ケ谷区民と横浜市との協同により、松32本を植樹し、旧東海道を象徴する松並木をよみがえらせました。まだ若い松ですが、何十年後かには立派に成長するでしょう。楽しみですね。

 

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 樹源寺の裏の墓地です。踏切を渡っていくというのが面白かったので、写真に撮ってしまいました。横浜は、斜面に沿って街道もお寺も鉄道もあって、このような風景に出会うことが多い気がします。

 

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 樹源寺近くの街道沿いに「まちがど博物館」の幟を出したお店(?)を発見。「まちかど博物館」とは、店先などのちょっとした空間を利用して、保土ケ谷で積み重ねられてきた歴史・文化・なりわいのわざを物語るものを展示している「博物館」だそうです。各館長さんの善意で運営されていて、開館日や開館時間もそれぞれの館により異なるようです。ここでは何を展示していたのでしょね? 通り過ぎてしまいましたが、保土ケ谷宿で「まちかど博物館」めぐりをするのも楽しそうです。

 

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 権太坂に差し掛かる手前のコンビニエンスストア。なかなかな好立地ですね。お手洗いをお借りして、のど飴を買いました。昔の茶屋的な? 実際、この辺りに、茶屋があったかもしれませんね。

 

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 元町橋です。川筋が変更されてこの場所に移転しました。旧元町橋は、もっと手前にありました。(前々回のブログ記事「クローズアップ戸塚宿」をご覧ください。)


 

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 いよいよ権太坂が始まる手前に、庚申塚がありました。厳しい坂道を無事越えられますようにと、旅人を見守ってきたのですね。

 

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 権太坂中腹。かなりの勾配であることがわかっていただけるかと思います。

 

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 権太坂上からの眺め。遠くに丹沢の山々が見えます。ちょっとホッとします。江戸時代の人も、この辺りで足を止めたかもしれません。

 

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 境木地蔵前。旧東海道に入る分岐点です。雰囲気のある石の道標ですが、よく見ると「環状二号線」と書いてありますね。旧道の雰囲気を盛り立ててくれる心遣い、嬉しいです。

 

 この先の東戸塚駅前で昼食にしたので、ブログもここでいったん閉じます。続きもお楽しみに・・・

 

 


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